検索結果

トップ > ニュース一覧 > めざめの季節

めざめの季節

新学期がはじまりました。
夏休み中のがらんとしたキャンパスもいいものですが、やはり学生たちがもどってきて、にぎやかになると、うきうきした気持になります。

学生ホールに行ってみると、真っ黒に日焼けした学生が、「あっ学長」と声をかけて通りすぎました。「いまのだれ」と近くにいた学生に聞くと、一呼吸おいて「今野君でしょう」と、学長の陳腐なギャグにも、いやがらずに応じてくれました。夏休み中に実習を経験したことで、学生たちのやさしさと寛容さには、いちだんと磨きがかかったようです。

となりのテーブルでは、教材の準備をしていた男子学生に、ここはこうしたらいいんじゃないのと、そばにいた女子学生がやさしくアドヴァイスをしていました。学生たちも実習で教える立場を経験することで、相手の身になって言い方を工夫する大切さに気がついたのではないでしょうか。

階段を上がって二階のラウンジに向かうと、先生がたの部屋に出入りする学生の姿がみえます。そのうちのひとつの研究室では、先生は自分の机でパソコンに向かっていましたが、離れたテーブルで学生がひとりで文献を読んでいました。それぞれがそれぞれの仕事に静かにとりくんでいる姿は、まるでフェルメールの絵画のようでした。静謐な空気をドアの外からでも十分に感じることができました。

おもわず、なぜそんなに、ひたむきに勉強しているのかと聞いてみると、施設実習をしているうちに、いまのこどもたちがかかえている問題と取り組むためには、もっと勉強が必要だと感じたからというのです。大学院に進学したいともいっていました。実習がおわった秋学期は、どうやらめざめの季節でもあるようです。

現場を体験した学生たちの様子をみていると、ある本の冒頭にあった印象的な文章をおもいだしました。たしかこんなことが書いてあったように思います。

事柄を深く捉えていればいるほど、我々はその同一の事柄を、相手や状況に応じたふさわしい仕方で語り出すことができる、しかし事柄を表層でしか捉えていないとき、我々は一つの表現しかもたないことが多い。その場合、我々はその一つの表現に固執し、不寛容になりがちである。
(植村恒一郎『時間の本性』(勁草書房、2002),1頁)

めざめといえば、宝仙寺の再建中だった鐘楼の囲いがとれ、梵鐘が姿をみせてくれました。先の第二次世界大戦中に供出されて以来、70年以上にわたって不在だった鐘が、復活したのです。どんな鐘の音がするのでしょうか。大学や幼稚園にも聞こえてくるのでしょうか。いまからとても楽しみです。

160921学長だより(宝仙寺梵鐘)

toTop